あなたはどうして文章を書いているのか




自分はなぜ文章を書くのだろうか。明確な理由は見つかっていない。

あなたはどうして文章を書くのか、自身で理解できているだろうか。

そもそもにして、人はなぜ文章を書くのだろう。

文章を書くという行為には、一体どんな意味があるのだろうか。

文章を書くという行為の必要性と功罪

一口に人と言っても、文章を書かない人だっている。

人の中にも文章を書く者と書かない者、その二種類が存在するということだ。その二種類しか存在しないとも言い換えられる。

その中には好き好んで小説や物語を書くという人もいれば、仕事で必要な文書を書くだけという程度の人、文章など全く書く機会も習慣もないという人など、様々なタイプの者がいるだろう。

人が生きていくのに、文章を書くという行為は必ずしも必要になる物ではない。文章など書かなくたって人は生きていくことができる。

例えば料理をすること、身体をよく動かすこと、周囲の人間とコミュニケーションをとることなどの方が生きていく上での優先順位が高いだろう。

むしろ自宅に籠り煩悶と懊悩を繰り返しながら文章を書き続けるという行為は、人間を不健康にするイメージさえある。

著名な作家たちの多くが病を患っていたり早逝したりしているのは、文章を書くという行為の不健康さにその一因があるのではないかと想像しやすい。文章を書くという行為は、人が健やかに生きていくのには多分全く必要が無いのだ。

例えば、夏目漱石がその繊細な性格に因る神経症的な症状を認められ、最終的には胃潰瘍によって四十九歳で死に至らされていたり、

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樋口一葉が困窮した生活の果てに肺結核を患って、二十四歳という若さで亡くなっていることからもそれが窺える。

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それでも人は文章を書く。

自分もそうだし、世の中には多くの〈物書き〉がいる。なぜ多くの人が文章を書くという行為に傾倒するのだろう。

あるミュージシャンが曲を作る事、詞を書くことは排泄行為に等しいと発言しているのをインタビューで読んだことがある。確か椎名林檎さんだったと記憶しているが、成程言い得て妙だと感心したものだ。

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文章を書くという行為も多分似ていて、自分の中にある混沌とした感情や感覚を吐き出して、心と身体とを浄化するという意味合いがあるのに違いないと思う。文章を書き紡いだ後で幾ばくか晴れやかな気持ちになるのは、多分そういうことなのだろう。

それならば、人が文章を書くのは排泄行為としてであると断言してしまえるかと言うと、どうもそれだけではないように思う。もっと根源的な、生物的な理由が存在するのではないかと疑うのを止められない。

人間が、人間らしくあるために

自分は歩くという行為を大切にしていて、よく散歩をする。

歩くという行為が人間にとって最も基礎的/根源的な運動/行為であると考えているから、人間らしくあるためにそれを蔑(ないがし)ろにしたくはないのだ。

せっかく猿から進化して直立二足歩行という技能を手に入れたのだから、目一杯駆使したいではないか。人間にしかできない行為をしなくなったら、人間ではなくなってしまうような気がするのだ。

文章を書くという行為もそういうことなのではないか。

つまり人間にしかできない行為、人間が人間らしくあるために必要な行為であるということである。

文章を書くという行為は、多分人間にしかできない。

キリンやナマケモノが文章を書くというのは聞いたことが無いし、文字や文章を書けるように訓練されたチンパンジーが世界のどこかにいるかもしれないが、自らの書く文字や言葉の意味を理解し、文脈や文章全体の整合性まで配慮してそれをこなすことができるという動物は他のどこにも存在しないだろう。

〈無限の猿定理〉――つまり猿がデタラメにタイプライターを叩き続けていればいずれシェイクスピア作品と同様の文字列を書き上げる確率もゼロではないという思考実験があるが、そんな天文学的な確率や奇跡では意味がない。

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文章を書くという行為もまた、人間だけに与えられた技能、授けられた宿命であるように思えるのだ。文章を書くという行為が人間を人間足らしめている、そう思えてならない。



文章を書くことは、考えること

文章を書く時、人は考える。

いや、考えないで書くことができる天才もいるかもしれないが、少なくとも自分は考えることを要する。むしろ書いている時間よりも考えている時間の方が長いのではないか。

考えさえまとまってしまえばあとは作業的に書けばいいだけだ。考えることの方が書くことよりも難儀なのだ。考えることこそが文章を書くということの本質なのではないかと思う。文章を書くということは考えることなのだ。

人は考える生き物だ。

思惟して、想像し、煩悶して、懊悩する。

考えることもまた、人間だけに背負わされた行為だ。それは時に絶望や苦悩を与えたりもするが、希望や幸福もまた、考え、行為した結果からしか創出されない。

考えることは人間にとっての必須行為であり、考えることを放棄することはすなわち、人間から動物に失墜することを意味するのではないか。

いや、失墜というと人間が他の動物よりも高尚な生き物であると言っているみたいだがそうではなくて、人間が人間としてあるために考えることは必要条件であるのではないかと言いたいのだ。

〈人間は考える葦である〉とはよく言ったもので、思考する事こそが、本来脆弱で寄る辺ない存在であったはずの人間に無限の希望や可能性を付与しているのではないだろうか。

考えることが唯一、人間が世界の無秩序や不条理な絶望に抵抗し得る盾であり剣であり叡智なのではないか。

パンセ (中公文庫プレミアム)

 

文章を書くことの魅力――結局、どうして文章を書くのかはわからない

自らの想いを人に話して伝えるという行為は悪いことではない。

会話するのが得意な人間ならばその方がよりよく自分の気持ちを表現できるだろうし、表情や挙動から感情の機微だって伝わりやすいだろう。人と対話するのが上手であるというのは一種の技能であるとさえ思う。

しかし自分は人と話すのがあまり得意ではないし、文章を紡いで表現し、そうして伝えることの方に底知れぬ魅力を感じる。

吠えたり叫んだり、嗔(いか)って声を荒げたりというのは他の動物でもできるから、やはり思考し煩悶しながら文章を書き綴るという行為に、人間としての本分、原罪にも似た甘美と背徳を感じて、そのやり方を選択することから免れない。

だから自分は文章を書き続けるだろうと思う。その明確な理由も、意味もわからないまま。

文章を書くという行為の先に何かがあるわけではない。あったとしても先に述べた様な、排泄行為を成した時に似た幾ばくかの爽快感があるだけだ。

文章を書くことを辞めることがあったら、多分それは自分が人間でなくなった時――つまり心か身体かが死んだ時だ。

永遠の眠りについた後で、残された自分の文章を読む者があったなら、それはなんて奇跡的で不可思議なことなんだろうと思う。

(『誰のために小説を書くのか』)







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