小説が書きたくなる瞬間




小説が書きたくなる瞬間、それは心が動いた時である。

心が動いた時、それは創作へと昇華する

心が動いた時――それは、小説、音楽、舞台、映画、テレビゲーム、マンガ、アニメなど、媒体を問わず素晴らしいものに触れ、感動した時である。

感動と言うのは何も涙を流したくなるような気持ちだけを指すのではない。

新たな何かに挑戦したくなるような熱い気持ち、自分の大切なものを守って慈しみたくなるような優しい気持ちなど、行動を伴わせるような健やかな心の動き方をしたならば、それはすべて感動であると言える。

当然、実体験で心が動かされた時も創作へと向かわせる原動力となり得る。

いやむしろ毎日のように心が動かされる体験があって、日々感動の連続であるという幸福な者がいるのならば、先に述べた様な各媒体に触れずとも、創作へと意識を向かわせることができるだろう。

過去の出来事や幼い頃のおぼろげな記憶、夢で見た不可思議な風景やその色彩、そういったものが、書くことへの動機の端緒となる種(たね)になる。

種をすぐ創作に昇華させることもできるだろうし、自らのフトコロの中であたためて成育させてから創作につなげることもできるだろう。素敵な経験や記憶は、きっと心の中に長く残っているから。

負の感情を創作へと充てても良い

一般的には不健全であるとされている感情を、創作へのエネルギーとして充てることも悪いことではない。

誰かを憎悪し見返してやろうという気持ち、大切な存在を喪失してしまった悲しみ、躓いてしまって前に進むことを断念させる絶望などは、創作へと向かわせる大いなる原動力となるに違いない。

むしろそうすることで乗り越え克服することこそ健全だろう。感情たちも浮かばれると思う。



書きたいと思う瞬間――蝶々をつかまえよう

小説を書き始めるのに適齢期はなくて、だからいつ取り掛かっても良い。

書きたいと思った瞬間を上手く捕まえて、飼いならすことができた時がその時だ。

小学生の時にそれを捕まえることができる者もいれば、八十歳になってからそれと出会う者もいるだろう。書き始めるのに早過ぎるということもないし、だからといって遅過ぎるということもないと思う。

書きたくなる瞬間は、いつだって不意に訪れる。花から花へ移り舞う蝶々のように気まぐれで、庭のどこかにいるはずなのにその姿を現さなかったりするのに似ている。

蝶々を捕まえた者が幸福になるかどうかは別の話で、必ずしもそうはならない。蝶々はメーテルリンクの青い鳥ではないから。

しかし仮に蝶々を捕まえた者が不幸になってしまったとしても、そのことに意味は生まれるだろう。その者が生きた証は残るだろう。

書くことと対峙し、真摯にそれと付き合い続けた人間が絶対に幸福になるような世界であればいいが、残念ながらそういう訳でもないみたいだ。

書くという行為は人間やその精神を豊かにすると考えているから、多くの人がそれに向き合えば良いのにと思う。蝶々を捕まえることができる者が増えたなら、それは素晴らしいことだ。

既に小説を書いて日々を送っている人間ならば、蝶々を捕まえた瞬間の歓喜を、奇跡に出会えた時のような昂揚を理解することができるのではないか。そのくらい、その瞬間と言うのはギラギラと輝いていて、あたたかく、尊い。剥き出しの、小さな太陽みたいだ。

蝶々が運んで来るもの

慣れて来ると、その瞬間に新鮮味が感じられなくなることがある。

蝶々の羽が湛えている鮮やかな色彩が、綺麗に見えなくなってくることがある。あんなにも素晴らしかったものが、余り価値の無いものに思えて来たりすることがあるのだ。

書き続けることから来る弊害みたいなものだが、そういう時こそ丁寧にやわらかく蝶々を捕まえて、優しく慈しんでやりたい。訪れた瞬間のひとつひとつを、蝶々の一羽一羽を大切にし、愛でてやりたい。そうしてやることこそが、書くという行為の正体なのではないかと思う。

蝶々は青い鳥ではないと先に述べたが、実は蝶々には青い鳥以上に強く不可思議な力があるんじゃないかと思っている。

その瞬間を捕まえて大切にしていった者を、十分に幸福にさせるだけの力があるんじゃないかって信じている。

なぜならば、蝶々を捕まえて、書くことに向き合い始めてからの自分はこんなにも幸せだから。

だからあなたも小説を書きたくなる瞬間――蝶々を捕まえて、やがて訪れる幸福を育てるように、大切に愛でて慈しんでやろう。

(『小説を書きたいのか、小説家になりたいのか』)



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です