小説を書いたその先にあるもの




小説を書いたその先に、一体何があるのか。

そんなことはわからないし、きっと最期の瞬間まで理解することは叶わないだろう。

人々はなぜ小説を書くのか?

小説を書いて誰かが褒めてくれるわけでも、労ってくれるわけでもない。

プロの作家ならばお金を貰えるだろうが、そうでない者が特別な対価を得られることはない。

人気作家ならば喜んでくれる人が大勢いるだろうが、そうでなければ書いた作品を読むのなんてせいぜい自分と身内くらいしかいないわけだ。

そう考えると小説を書いている過半数の者が、対価を得ずにその行為と対峙しているということになる。

もちろん、プロの小説家になることを目指して書いている者は多いだろう。そういう者にとっては〈プロの小説家になること〉が〈小説を書いた先にあるもの〉であるのに違いない。

ではその者が、もしもプロの小説家になることができたとしたらどうだろう。

今度はより多く稼ぐこと、たくさんの人に読んでもらうこと、あるいは少しでも長くプロの作家としてあり続けることなどを目標として据えるのだろうか。

小説家という職業は特に、デビューすることよりも長く継続させることが難しいと言われている。息の長い作家になるということは、十分に〈小説を書いた先にあるもの〉としての役割を果たすかもしれない。

それさえ達成させられたとしたら、次はどうだろう。

小説家として成功することが目的なのか?

お金もある、名声も得た。みながチヤホヤしてくれるし、一生働かなくても良いだけの財産を構築できた――そんな者が〈小説を書いた先にあるもの〉として想定するのは一体何になるのだろうか。

そうなった時点で小説を書くのを辞めてしまうのだとすれば、その者は〈小説家として成功すること〉を〈小説を書いた先にあるもの〉として設定していたのだと思う。小説を書く理由が無くなった時に、それを辞めてしまうに違いない。

しかし成功を収めた後でも、小説を書くのを辞めない者もいるだろう。

周囲から傑作と称えられる作品を上梓した後でも、書くのを辞めない者がいるだろう。

その者は〈小説を書いた先にあるもの〉が何なのかわからないのではないか。

〈小説を書いた先にあるもの〉が何なのか知りたくて、小説を書いているのではないか。自らへの問い掛けを、試行を、止めることを辞めないのではないか。



小説を書くという行為は、自身や、世界や、真実に肉薄するためにある

本来小説を書くという行為はそういうものだ。

酷く不確定で、不可思議で、不採算な行為だ。

理由が存在したり目標を達成させたりするためにあるものでなく、自身や、世界に問い掛け、その正体に、実像に、少しでも鋭く肉薄するための行為だ。

自分には発表していない長編小説が二本あるが、そのどちらも、書かずにはいられなくて書いたものだ。

書いている理由も、目標もわからずに書いた。

散々悩み、苦しみながら、時に気楽に、愉快に書いたものだが、書き終わった後で何かがあったか、何かを得ることができたかと言うと何も無い。しかし刊行させられることや金銭を得ることを目的にして書いたわけではないから、それで良いと思っている。

小説を書くという行為、つまりその過程その物に意味があるのだ。

懊悩や煩悶を経て文章を紡ぎあげることに価値が生まれる。

小説を書いた先にあるものなんて何も無いのだと思う。小説を書いた先に何かが待ってくれているという考え自体が傲慢なのだ。

だから小説を書いた後で、それが何の役に立たなくたって構わない。

誰からも見向きもされず、なにか得するわけでもなく、しかしそれでも確かに小説を書くという行為の尊さは変わらないだろう。価値は失われないだろう。

多くの人が小説を書き、考え、悩む。

それが世界と、彼ら自身の輪郭線とを鋭敏にする。明瞭にして、真実の正体を解き明かそうとする。

そうやって世界は、いつもギリギリのところでバランスを保ちながら成り立っている。



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