あなたは誰のために小説を書くのか



あなたは、一体誰のために小説を書いているだろうか。

小説を誰のために書くのかというのは、考察して追及すべき命題の一つであるかのように思うが、こと自分に関して言えば、無論、自分のためである。

他の誰かのために文章を書いてやるほど自分は優しくないし、そんな余裕もない。

書きたいものを書き、まずは自分が一番に楽しむ

小説を、家族のため、親友のため、愛する人のために書いているという者もいるのではないか。素晴らしいことである。

また、より多くの読者を喜ばせることを標榜して書き続けている者も少なくないだろう。

より多くの読者――不特定多数の誰かを喜ばせるため広く支持されるような内容の文章や小説を書くということは、それだけで志の高いことであると思うし、やろうと思って簡単にできることではない。それをしながら、第一線で書き続けることが出来ている物書き諸氏は立派だと思う。

しかしそれをするのは、自分の役割ではないと考えている。

自分は、時に読み手から理解されることを望まない。共感や同調を得ることに重きを置かない。

敢えてそういったものを書いているわけではない。自分が書きたいように書いた場合、自然とそうなる。そうなるというのはつまり、理解や共感や同調を得難いシロモノが出来上がりやすいということである。

文章を書く時に大切にしていることは、まず自分が楽しむということ。

自分が書きたいものを書くということ。書きたくないものを無理してまで書かないということ。

また他の項で述べたが、自分にとって文章を書くということは排泄行為と同列にあることなので、それを成した時に幾ばくかでも爽快感を得られるかどうかということも肝要になってくる。

そして出来上がったものが、自分にしか書けないものになっていること。他の誰かが書いたのとよく似たものになっていないこと。

自分以外の誰かでも書けるものを書いたって意味がない。自分にしか書けないものを書かないと意味が無いのだ。

人と違うものを書くことを恐れない

物書きはもっと尖っていて良い。文章を書くということには元来、自らの主義主張を掲げて誇示する性質があったはずだ。

人が眉を顰めて忌避することや、必ずしも誰かに喜んではもらえないこと、殆どの人が心の奥に潜めて曝け出すことがないようなことを書く者が、もっといて良いと思う。

他人には理解されない作家自身の独特の感性・感覚が滲み出ているような歪(いびつ)な作品がもっとあって良いと思う。

読者に媚びて目線を合わせることというのは、重篤な弊害を生むと思っている。今、小説が売れない、本が売れないと声高に叫ばれているのは、そのことに一因があると考える。


編集者が作家の作品に口を出さない方が、読者も市場も成長する

自分の考えはこうだ。

まず、作家は自分の書きたいものを書く。次にそれを編集者がチェックして、内容の変更や訂正を指示するわけだが、この工程がいらない。不要である。

いや誤字脱字の指摘や校正作業、デザインやレイアウトの決定などは行って然るべきだが、それだけで良い。内容にまで口を出す必要がない。〈編集〉という言葉が本来持っている意味の通りのことだけしてくれれば良い。編集者であって作家ではないのだから。

するとどうなるか。

編集者によって内容の精査されていない作品が世に多く出回ることになる。作家の独自性や特異性が色濃く反映された作品が市場に出回ることになる。

中には流行と逆行したような作品、世相に相反して批判されるような作品、小説としてのセオリーや売れ線の設定・ストーリーを逸脱して顧みない作品、難読漢字だらけで読めやしない作品、稚拙でデタラメな作品もあるだろう。だが、それで良い。

すると書店では種々様々な作品が販売されることになる。ストーリーのタイプもキャラクター類型も質の良し悪しも千差万別の作品が店頭に並ぶことになる。

なにか面白い小説がないかと書店を訪れた者は店頭でどれを購入するべきか大いに迷う。迷い考えた末に、一つの作品を選んで購入する。

家に帰って読んでみた時、それが表紙やあらすじから想像した印象とは違って面白くない、つまらないものであるということも多々あるだろう。

そうして次に書店を訪れた時、また一つを選んで購入する。今度は自分好みの作風でとても面白かった、購入して正解だったと思える。それから次の機会にまた書店で一冊購入し、今度は失敗だった……それが延々と繰り返される。

そうして読者は、失敗を繰り返しながら多くの作品に触れることで見る目が養われてゆく。

どういった作品が良い作品で、どういった作品が悪い作品なのか、あるいは自らがどういった作風を好み、どういった作風を好まないのかがわかるようになってくる。作品に対しての審美眼が身に備わるようになる。

店頭には様々なタイプの作品が並んでいるわけだから、読書を好む者の多くが、自ずとそうなってくる。遅かれ早かれ、大多数の者は作品を見る目が養われてくる。

そうなれば本当の意味で質の低い作品、文章や小説としての価値が無い作品は自然と淘汰される。市場には質の高い作品や個性的で面白い作品が残って、多く並ぶようになる。

編集者が作品の内容に手を入れないで商品化することで市場が活性化されるわけだ。

多くの読者は作品に対する審美眼が養われ、店頭にはその審美眼に堪え得るような上質の作品だけが並んで賑わすようになる。

あえて読者を突き放して様々なタイプの作品を提示してやることで、読者自身と市場、両方の成長・発展が見込めるようになるのだ。読者を甘やかさないことが結果として市場を活性化させる。編集者が余計なお節介を焼く必要は無いのだ。

まだ見る目が養われていない読者に合わせ、過保護なまでにわかりやすく、読んでいて気持ちが良いだけの、紋切り型の作品ばかり発表したことに市場が衰退した一因があると思う。

気持ちが良いだけでは人は成長しないし、そうして育った者は、作品に限らず、物事の本質を見極める目を欠いていると思う。

まずは自分のために、小説を書こう

だから、もっと自分のために小説を書く者がいて良い。

多くの人に支持されることを無視して、自分が楽しむために書き、自分にしか書けないものを発表する人が増えたら良い(これは何も誤字・脱字があって良いとか、文章全体の整合性が取れていなくても良いと、言っている訳ではない。

あくまで同時代性や、多くの人からの支持を得られるかどうかという点において、配慮されていない作品があっても良いのではないかと、提案しているだけだ)。

〈人のために小説を書く〉のは、〈自分のために小説を書く〉ことの次ぐらいに大事にすれば良いのだ。

もしもそういう作品で世が溢れ返って、こんな小説読んだことない!って、感動できることが増えたなら面白い。

未来ある人々のためにも、新鮮な読書体験を提供してやることこそが出版社の使命であるのではないか。紋切り型の作品ばかり読んで育った者が作る世界・社会・未来が、素晴らしいものになるとは思えない。

今日もまた、自分は、自分のために文章を書いている。

読者のためでなく、彼らの未来のためでなく、社会や世界のためでなく、たった独りの自分のためだけに書いている。

しかし自分のためだけに書いた物が、まわりまわって誰かの未来や幸福や平穏、よりよい社会や世界のために少しでも役に立つことがあったなら、こんなにも奇跡的で喜ばしいことはない。

(『どうしても文章が書けない時』)



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